高貴なる行ない


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+「他者を助ける」
善のキャラクターのところに村の長老がやってきて「助けてくれ、我々の村をドラゴンが脅かしている」と言った場合、善のキャラクターの返事は「いくら払う?」ではない。中立のキャラクターは、そういう傭兵かもしれない。悪のキャラクターはほぼ間違いなく、その状況から最大に利益を得ようと画策するだろう。しかしながら善のキャラクターの場合、個人的な利益よりも他者を助ける方が、優先順位が高いのだ。
善のキャラクターは、その村を助けるために立ち上がって突撃する前に、質問をたくさんするかもしれない。善のキャラクターは、必ずしも愚かではない。善のキャラクターは注意深く、そのドラゴンがどのくらい強力か、そして増援が必要かどうか調べるかもしれないが、「申し訳ないが私の手には負えないので、他の英雄を探して下さい」とは絶対に言わない。銭湯に入る前に、敵について可能な限り調べるのは有意義だ。さらに言えば善のキャラクターは、他者を盲目的に信頼しなくて良い。その長老の話は真実であり、何らかの悪人が彼らを罠にはめるために仕掛けた策略ではないことを確かめるために、長い時間かける者もいるかもしれない。
その善のキャラクターがどれだけ慎重であろうと、あるいは懐疑的であろうと、援助を必要としている者にそれを与える責任はいささかも損なわれない。『プレイヤーズ・ハンドブック』における善の定義で、一番最初に書かれている単語は“利他主義”(訳注:altruism、日本語版の『プレイヤーズ・ハンドブック』では“思いやり”と意訳されている。)だ。報酬(さらには感謝)抜きで他者を助ける行為は、善のキャラクターにとって日常茶飯事なのである。
これ書いた人間は「善≒愚か」と思っているのは間違いないな。
+「慈善」
他者に対する支援の特別の形態として、慈善がある。物質的な支援を必要としている者に、それを与えるのだ。なかでも特に、その生活状態がゆえに誇りと敬意を失っている者たち。飢える者に食べ物を与え、裸の者に衣類を与え、家なき者に宿泊設備を与え、孤児や未亡人の面倒を見、希望なき者に希望を与える。これらは最も単純ではあるが、最も重要な善の行為だ。善のキャラクターは、貧乏人にこれらの支援を与える。その人物が持つ道徳的な性質は考慮に入れず、その人物の尊厳を最も重視する。
自己研鑽ができないくらい弱い生物には、下層階級が相応しい。という考えは、典型的な悪の定説である。善のキャラクターは、このような考えを完全に否定する。最も貧しい人々は環境の犠牲者であり、自身の弱さや失敗によるものではないと認識しているのだ。
ふと学生の頃に介助犬についての講演を聞いた事を思い出したぜ。講師はその世界の第一人者であるメリケン人。話の流れは忘れたが「そのタクシーの運転手が動物のアレルギー持っていたらどうするんですか?」「辞めろ(0フレーム)」と言って場を騒然とさせた。何というか日本人の感覚というか少なくとも自分の感覚ではこうはいかんな。
+「治療」
怪我を治療する、病気を取り除く、毒を中和する。これらは善のキャラクターが持つ、生命に対する尊厳を体現する具体的な行為だ。これらの行為は、無条件で善というわけではない。自己中心的に行われる時もあるし、悪の目的の為に行われる時もある。たとえそうでも、治癒の魔法は正のエネルギーを使用する。そして正のエネルギーは、聖なる力と密接に結びついている。
善のキャラクターのなかには、その道徳表現として治療に一生を捧げている者がたくさんいる。ペイロアは治癒の神であり、治癒の領域を選択したペイロアのクレリックたちは、治療を通してペイロアの恩恵を他者と共有する任務を帯びている。悪人をやっつけるのがその主たる任務であるパラディンでさえ、その純粋な善の反映として、怪我を治療したり病気を取り除いたりする能力を持っている。治療に一生を捧げているキャラクターは、その治癒能力を天上の神々からの贈り物とみなしているため、それを汚すような使い方(たとえば悪のキャラクターを治療するとか)を絶対にしないよう、細心の注意を払っているのが一般的だ。一方なかには、治療は慈悲の手段であると考えている者もいる。そのような者たちは、ブラックガードに対してキュア・ライト・ウーンズを発動すればするほど、その悪人は改心に近づくと信じている。
善は悪を癒さないのが一般的だとかあるが、『正道-目的と手段』とあわせて考えると「一般的な善は、悪がいかなる状態(たとえば瀕死の重傷を負い、自分に助け求めている)であろうとキュアしたりしない」すげぇな、善。
+「自己犠牲」
善のキャラクターは、そうすることが自分にとって都合が良いという理由で、他者を助けたり悪と戦ったりするわけではない。最も利己心のない利他主義でさえ、犠牲なしでなされた場合、もしくは自己都合でなされた場合、せいぜい中立が良いところだ。善の大儀にその身を捧げているキャラクターは、いかなる状況でもその大儀を擁護する。そしてその際にはしばしば、大変な危険にその身をさらしたり、莫大な費用を支払ったりする。
前のセクションで触れたように、自己の行為に対するすべての報酬を辞退することは、単純な形態の自己犠牲だ。寺院、慈善団体(孤児院や支援団体)、その他の団体に金銭、品物、あるいは魔法のアイテムを自発的に寄付する行為は、善のキャラクターがしばしば行う経済的な自己犠牲である。さらに徳の高いキャラクターは、世俗的な娯楽(アルコール、興奮性の飲料[コーヒーとか]、セックス、物欲)の一部や、一定の行為(たとえば暴力)を永久に放棄するという、清浄なる誓いを立てるかもしれない。真の正義の英雄は、極めてしばしば、他者の生命を救うために自身の生命を犠牲にする。
寄付してたら正直ゲームにならない。もう清貧になるしか
+「善の神々を崇拝する」
徳、正義、清廉の本質を最も良く体現しているのが、善の神々だ。そしてこれらの神々に崇拝、 生け贄 、奉仕を提供する事によって、善のキャラクター達は自身の徳を育み、善の大義をしっかりと支え(教会の慈善活動を支援したり、その神のエージェントとして使えているクレリックやパラディンを励ましたりすることによって)、この世界におけるその神の影響力を拡大させている。
すべての善のキャラクターが、善の神々を崇拝しているわけではない。聖カスバート、オーバードハイ、オリダマラなどといった中立の神々に仕えている者もいる。あるいは、あらゆる神々の教義よりも善の主張を優先させる者もいる。それにもかかわらずほとんどすべての善のキャラクターは、善の神々の教会と自発的に協力する。共通の大義を持つ仲間とみなしているのだ。
悪の神々と異なり、一般的な善の神々は公の場所に寺院やほこらを建てている。しばしば、ごみごみした都市の中心やその付近に。実際のところ善の神々に対する崇拝が、人型生物の社会を団結させるに役に立っている勢力のなかの1つとなることがしばしばある。共通の理想を持ち、共通の活動を行う事によって、人々を団結させているのだ。これは善の属性を持つ人間外種族(ハーフリング、ドワーフ、エルフなど)のなかで、ことさらに一般的である。そのような種族では善の属性が標準であり、しばしば社会全体が1柱の神に忠誠を誓っている。しかしながら人間の都市でさえ、ペイロア崇拝に引き込まれるのは一般的だ。なぜならペイロアは善のみならず、中立の市民からも敬われているから。もちろん悪の文化においては、善の神々に対する崇拝は犯罪や反逆活動になりうる。

【徳を育む善の儀式】
                  ||      
                _||._      
                /_悪ヽ_  
               彡 ´ー`)ミ
                 ≡≡≡≡  
               ≡≡≡≡
               ≡≡≡≡
               ≡≡≡≡
                 UU     イケニエヲササゲマスノデ、ドウカ・・・
                从 从                   ヽ○ノ
          ○/   <  >     \○              (へ
_| ̄|○ _| ̄     从人人人从       ̄|_  ○| ̄|_  く

+「[善]の呪文の発動」
[善]の魔法は苦痛を和らげ、希望や喜びを与え、術者のエネルギーや活力を使用して他者を支援したり治療したり、セレスチャルを招来し、聖なる力を放つ。なかでも特にこの聖なる力を放つ点に関しては、[善]の呪文はファイアーボールと同じくらい破壊的になりうる(少なくとも、悪のクリーチャーに対しては)。すべての[善]の呪文が、優しさと光のみをもたらすわけではないのだ。
改心という点に関していえば、[善]の呪文は良しかれあしかれ、それを発動する者にいかなる影響も与えない。いくつかの[善]の呪文に手を出している悪のウィザード(おそらくは利己的な目的を達成するために)は一般的に、聖なる接触によって浄化されたのだから自身の悪の道を放棄しよう、などとは考えない。その一方で成聖された呪文のなかには、術者に肉体的な犠牲を要求するものも存在している(第6章にある『成聖魔法』参照)。このように聖なる魔法の力を引き出したキャラクターは例外なく、結果として以前より善になる。
+「慈悲」
悪の勢力を狩って殲滅するためにその一生を捧げている善のキャラクターたちにとって、悪が持つ最も魅力的な誘惑は、慈悲の放棄かもしれない。慈悲とは、降伏した敵を助命することであり、同情(時には親切)をもって犯罪者や捕虜を遇することである。事実上これは生命を尊重するという善の教義を拡大解釈したものだ。すなわち自身の敵の生命さえ尊重し、敬意を払うのである。生命をまったく尊重しない敵が満ち満ちている世界においては、その敵が他者を遇したのと同様にその敵を遇してあげたい、無辜の民や仲間を殺害した者に同等の復讐をしてあげたい、助命を認めず無慈悲になりたい、という強い誘惑がありがちだ。
善のキャラクターは、この罠に屈してはならない。善のキャラクターは降伏を受け入れ、慈悲を与えなければならない。その悪人が悪事を続行するために、何回彼らの親切を裏切ったか、何回捕虜から脱出したかは関係ない。敵が降伏したら、善のキャラクターはその降伏を受け入れ、捕虜を拘束し、可能な限り親切に遇しなければならない。(捕虜の適切な処遇に関しては、第2章にある『慈悲、捕虜、改心』参照)
一般的にいってDMは、敵に慈悲を与えた事によってプレイヤーたちが不必要にひどい目に会うといった事態を、避けるべきである。すべての捕虜がパーティーに対する裏切りを計画し、後に牢獄から脱出したならば、プレイヤーたちは速やかに、慈悲を与えてもまるで無駄であると認識するに違いない。この種のいらいらがたまに発生する分には問題ないが、毎回発生するとなると、プレイヤーたちは間違いなく諦めてしまうだろう。
+「寛容」
寛容は、慈悲と密接に結びついているが、それとは独立した行為だ。慈悲とは、敵の生命を尊重することを意味する。すなわち、親切に値する存在として遇するわけだ。寛容は、信念に基づく行為である。最悪の悪党でさえ、改心する可能性があると信じるのだ。善のキャラクターは、誰かがそのキャラクターを傷つけるたびに、それを“許して忘れる”ことを義務付けられているわけではない。単純化して言えば寛容とは、復讐の権利を放棄することを意味する。あるいは、こう言うこともできる。すなわち、悪のキャラクターが己の行為を後悔し、悪に背を向け、より良い暮らしを送るために努力するならば、善のキャラクターは、改心した悪人を勇気づけ、過去を水に流し、そのキャラクターの悪行を非難しないことが求められる。
寛容は、改心させるためになくてはならないものである。過去にその悪人が傷つけた者たちが、その悪人に対する容赦を拒否するならば、今まさに悪に背を向けようとしているそのキャラクターは、本来新たな仲間になるべき人々から、憎悪と敵意しか受けないことになる。以前の仲間と以前の敵の両方から孤立したそのキャラクターは、敵意を育み、元の悪の道に速やかに戻っていく。容赦を求める者たちにそれを与えることによって、善のキャラクターは実際に善を広めていくのだ。1つには、悪に背を向けようとしている者たちを勇気づけることによって。もう1つには、改心しても大丈夫ということを悪人たちに示すことによって。
+「希望を与える」
最悪の非常の悪党たちが絶望を広め、最後の希望を潰すことを楽しむならば、善の大義は、絶望に直面した人々に再び希望を与えることになるだろう。これはあらゆる善の行為のなかで、最も漠然とした行為かもしれない。定義したり計測したりするのが難しいのだ。しかしながら同時に、善の本質であり中心であるかもしれない。このセクションで議論している他のすべての善の行為は、それを必要としている人々に与える確固とした物理的な利益に加えて、希望を増すという追加の漠然とした利益を持っている。病に肉体を蝕まれている人は、実際には2つの問題を抱えている。その人の肉体を蝕む物理的な病気そのものと、その人の魂を蝕む絶望だ。その人を治療することは、その肉体を治療するのみならず、失われた希望も回復させる。パラディンの慈悲に縋って悪に背を向けようとしている人は、改心という茨の道を歩まねばならない。そしてそのパラディンの慈悲と寛容は、この道を歩む上で最も重要な支援となる。すなわち、希望だ。その道の終点には報酬があるという、希望なのである。
希望の真の形態とは、物事が実際より良くあってほしいという漠然とした願いではない。物事の本当の姿を感じることだ。ピット・フィーンドによる抑圧支配に苦しんでいる都市に、高貴なるバードがやってきた場合、解放の物語を吟じたり、そのピット・フィーンドのデヴィルの手下たちに対抗する武力を示したりすることによって、希望を与えるかもしれない。しかしながら、その都市の抑圧された住民に対する最高の希望は、そのバードが彼らに親切を示した時に与えられる。すなわち、より恵み深い統治の下での暮らしとはどんなものであるかを、彼らは思い出すわけだ。デヴィルたちは住民たちをお互い同士敵対させ、絶望と不信を醸し出そうとしたが、そのバードは住民たちを1つの共同体にまとめる。親切と自由を(わずかではあるが)味わった市民は、希望を得る。その希望によって彼らは、デヴィルに抵抗する力を得るのである。そのバードの武力があろうとなかろうと。
+「悪を改心させる」
考えうる最も偉大な善の行為は、おそらくは悪の魂を改心させることであろう。悪のキャラクターに、その道が誤りであることを認めさせることは、無辜の民がその者の犠牲になるのを防ぐのみならず、そのキャラクター自身も救うこととなる。下方次元界で永遠の拷問と罰を受ける代わりに、上方次元界で祝福された来世を送ることになるのだから。慈善行為や治療行為は人々の肉体を救うかもしれないが、悪のキャラクターを改心させるということは、その者の魂を救うことなのである。
捕まえた悪人の喉元に剣を当てて「死にたくなければハイローニアスを崇拝しろ!」と叫んでも、誰も改心などしない。剣で脅して行われる転向は、政治的な道具としては有用かもしれないが、“転向者"の魂にはほとんど何の影響も与えない。もっと悪いことに、それは悪の香りがする。なにしろ犠牲者の自由を奪った上、自らが望む行為をさせるために拷問をほのめかすわけだから。真の改心は遥かに困難であり、手順を踏まなければならないが、真に徳の高いキャラクターは、それをやるだけの価値があると考えている。改心の手順は、第2章『選択ルール』に記述されている。
もちろん善のキャラクターは、一部のクリーチャーは完全に改心不能であると考えている。『モンスター・マニュアル』に“常に悪”と記述されているクリーチャーの大部分は、完全に改心不能であるか、もしくはあまりにも悪と強く結びついているために、ほぼ救いようがない。間違いなく、デーモンやデヴィルは殺してしまうのが一番だ。さもなくば、放逐するか。デーモンやデヴィルを転向させようと試みるのは、世間知らずの愚者だけである。悪のドラゴンは、完全に救済不能というわけではないかもしれないが、ほんの僅かな希望のかけらが残っているにすぎない。
一方善のキャラクターは、オーク、ゴブリン類、さらには完全に悪であるドラウとの遭遇でさえ、心を開いて接し、その敵がいつかは味方に転じるかもしれないという可能性にかける。その可能性がどれほど低くても。“通常は悪”のクリーチャーは、改心させることができる。だからといって、待ち伏せを喰らった善のキャラクターが最初に考えることが、「さてこの憐れなオークをどうやって改心させてあげようか?」となるわけではない。しかしながら、その待ち伏せしたオークが最終的に降伏したならば、改心させる絶好の機会が生まれたことになる。
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