JR福知山線脱線事故の話題×2です。
他のPJ記事へ直接言及した例は少ないので収録させていただきました。
他のPJ記事へ直接言及した例は少ないので収録させていただきました。
「責任の所在−JR脱線事故」 http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1106749/detail 【PJニュース 04月28日】− JR福知山線の脱線事故で、現在様々な原因分析が行 なわれている。運転手の責任、JR西日本の経営責任は当然問われるとは思うが、果た してJRに怒りをぶつけているだけで済む問題だろうか? もちろん、被害者遺族の方々にとっては誠にいたましい限りであり、その無念さと怒 りは十分に察するに余る。JR西日本に対して取材をしていた記者の中には、事故が起 こったばかりでまだ何も原因がわからないJR西日本側に対して「人が死んでんねんで!」 と声を荒げる者もいた。 スピードが事故の原因としたならば、責任は運転手にあり、また、未熟な運転手を使 用していたJR西日本の責任もある。「時間に遅れたらただでは済まされない」といっ たあせりもあったであろう。 しかし、日本という国はそれでも世界有数の「時間に正確な国」とも言われている。 かなりの長距離を走る新幹線の到着時間の正確さは並大抵のものではない。ではその時 間の正確さや「時間に遅れたらただでは済まさない」というのは一体誰が求めているの だろうか。我々国民である。 数分遅れただけでも乗客は「お前達のせいで遅れたじゃないか」と容赦無く怒り、ク レームを出す。追い詰められた会社側、運転手の日々のプレッシャーは半端なものでは ない。また、電車の本数を増やすように求めてきたのも、乗車率200%を超えても早く 帰りたいからと無理に乗ろうとするのも、危険な駆け込み乗車をして余裕を持った運転 を妨げているのも我々日本国民である。 加害者側を責めるだけが本当の解決方法ではない。【了】 パブリック・ジャーナリスト 小野 義武【東京都】
「責任の所在―それはJR―」 http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1109992/detail 【PJニュース 04月30日】− 4月28日のPJニュースで、「責任の所在―JR脱線事故」 という記事が掲載された。「責任の所在」というタイトル、文面、そして「加害者側を 責めるだけが本当の解決法ではない」という締めくくりら判断すると、筆者の主張 は、「事故の責任は国民にもあるのだ」ということだと判断してよいだろう。 確かに、「解決方法」は「責める」ことからは見出されない。しかし、「責任の所在」 は、間違いなく「JR」にある。このことは断言できる。なぜなら、今回の事故では絶対 的「被害者」が存在しているからだ。さらに「被害者」は、死者・負傷者だけではない。 彼らの周囲にいる家族もまた「被害者」なのである。そして、彼らに被害を加えた「加 害者」は間違いなく「JR」なのだ。 一見筆者の主張が正当に見える原因は、その視点の移動にある。筆者は「JR福知山線」 「JR西日本」、そして「事故が起こったばかりでまだ何も原因がわからない」という局 地的で現在的な視点で語り始める。しかし文章の半ばから、「日本という国はそれでも 世界有数の『時間に正確な国』とも言われている。」と、俯瞰的視点に切り替えて論を 展開している。このような視点の変更、つまり局地的・現在的な問題に対する俯瞰的視 点からの言説は、いかにも問題を社会的・歴史的に分析した上でのものとしてとらえら れかねない。 また、ここで取り上げられた、「時間に正確な国」という使い古された表現。それが、 反論の余地もないほど周知のものであることも、筆者の主張の正当化に貢献するもので ある。 しかし、ここで「時間概念」は根拠として成立しにくい。なぜなら、「時間概念」は有 史以前から存在したものではなく、人間が発明したものであり、そして、その「時間概 念」を普及させたのが他でもない、鉄道だからだ。 ウォルフガング・シベルブシュ(Wolfgang Schivelbussch)は、『鉄道旅行の歴史 十九世紀における空間と時間の工業化』の中で、鉄道が「時間と空間を抹殺」した経 緯を丁寧に記している。シベルブシュによると、機械化した交通手段つまり鉄道による 自然世界の縮小こそが、交通活動を計算可能としたのだ。実際に、イギリスで「時間」 が統一されたのは1840年であるが、その「標準時間」は個々の鉄道会社が独自に企画し たものであり、全国的に統一されたものではなかった。 一般の標準時が制定されるのに1880年まで待たねばならないが、ここでも基準とさ れたのは「鉄道」の「時間」である。このイギリス生まれの「時間概念」が日本に移入 されたことは説明を待たないであろう。時刻表こそが日本の「時間概念」を形成したと いっても過言ではない。現代のわれわれの「時間感覚」は、元を辿れば「鉄道」が創り あげたものなのである。 だからといって、「JR」にわれわれの「時間感覚」に対する責任をとれ、というのが ここでの主張ではない。ここで問題としているのは、「事故に対し『怒り』を持つ」行 為を抑圧する言説である。この時期に、このようなことを述べることが適切だとは思え ない。先にも述べたように、今回の事故では、「被害」と「加害」の関係は明確なので ある。大切な人を失なったり傷つけられた人が、その心の痛手を「怒り」として表現す ることは、心理学的にも極めて真っ当なことである。 むしろ今怒らねば、「被害者」の精神に後々及ぶ影響が懸念される。また、広く国民 が「怒り」を持つことも否定されるべきではない。われわれは、「共感する」能力をもっ ている。「もし私だったら」「もし家族が乗っていたら」と、自分に置き換えて物事を 考える力を私たちは有しているのである。「被害者」や「被害者の家族」と同じ位置に 立ち、その地点から考えていくことこそが今必要なのではないだろうか。 「怒り」は当然である。いや、怒らねばならないのだ。【了】 パブリック・ジャーナリスト 廣島 佳代子【大阪府】
※改行は引用者
俯瞰視点な東京発記事に、舐めてんのかゴルァと大阪発記事。
しかし大阪発記事も、たまたま持ってたネタ(シベルブシュ本)を入れて高踏やりに行っ
ちゃったのが難で、これはこれでネタの処理が中途半端な。ぶっちゃけ関係ないし。
「人こんだけ死んでるのに、よくもまぁそんな能書き垂れてますねチンカス野郎ww」と
か原則論でゴリゴリと押してみてほしかったです。
ただし、大阪発記事からは東京発記事へのリンクがなく、大阪サイド読んでも言及元自力
で探さなければならず、しょんぼり。
もっとこう、PJ同士で「切磋琢磨」して頂きたいものです。
俯瞰視点な東京発記事に、舐めてんのかゴルァと大阪発記事。
しかし大阪発記事も、たまたま持ってたネタ(シベルブシュ本)を入れて高踏やりに行っ
ちゃったのが難で、これはこれでネタの処理が中途半端な。ぶっちゃけ関係ないし。
「人こんだけ死んでるのに、よくもまぁそんな能書き垂れてますねチンカス野郎ww」と
か原則論でゴリゴリと押してみてほしかったです。
ただし、大阪発記事からは東京発記事へのリンクがなく、大阪サイド読んでも言及元自力
で探さなければならず、しょんぼり。
もっとこう、PJ同士で「切磋琢磨」して頂きたいものです。
そういえばPJ記事ってリンクそのものが少なくいですね。ネットの意味ないじゃん…