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山崎正友氏の三億円恐喝事件の真実

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元創価学会副理事長・顧問弁護士の山崎正友氏(1936年‐2008年)の三億円恐喝事件は造られたものである。

前史

山崎氏は1955年に京都大学法学部に入学。入学後腎臓病を患い入退院を繰り返し、病気を機に大学在学中に創価学会に入会。創価学会では、創価学会初の生え抜きの弁護士として創価学会の法務に関わる。
1970年代に起きた日蓮正宗との「昭和52年路線問題」においては積極的に関わりを持ち、弁護士として日蓮正宗と創価学会の調整役を務めた。また創価学会上層部の指示で、弁護士業務から逸脱した事も行っていた。
主な例は日本共産党の宮本顕治委員長宅盗聴事件や、創価学会と対立する敵対団体の瓦解工作などを実行していた。
しかし、昭和52年に表面化した第1次学会問題の最中、対立する側の日蓮正宗御法主・第66世日達上人の御高徳にうたれ、池田側近でありながら学会批判に転じた。
そして、かつて山崎氏らが北条浩(第4代会長。故人)の決裁のもと、組織ぐるみで行なった共産党宮本委員長宅の盗聴事件を暴露(ばくろ)するなど、激しい内部告発を展開したのである。
学会が日蓮正宗宗門を支配しようと企んでいた仏法上の大謗法をはじめ、対立政党の委員長宅を盗聴していたことなど、次々と悪事が露呈し、連日のようにマスコミを賑わし、学会の組織は大揺れに揺れた。

宮本顯治共産党委員長宅盗聴事件

1970年、創価学会・公明党に批判的だった共産党に対して創価学会幹部はダイレクトな内部情報を手に入れたいと宮本宅の電話に盗聴器を仕掛けたのである。共産党サイドは電話への雑音で盗聴を察知するのだが、その時は誰が何の目的で仕掛けたかは不明だった。
それから10年後の1980年。創価学会の顧問弁護士で池田大作の側近注の側近だった山崎正友が造反。謀略部隊の全貌を暴露したのだ。
「山崎の告白は衝撃的でした。宮本宅の盗聴は北条浩副会長(後に会長)の指示によって山崎が総責任者となり、実行部隊の竹岡誠治と広野輝夫が深夜、宮本宅の電話線がある電柱に上って設置したのです。これに味をしめた創価学会は、通称『山崎師団』という謀略部隊を作り、竹岡らが敵対する他教団や批判的な個人に対して盗聴、スパイ潜入、住居侵入、イヤガラセ、脅迫、買収と次々と違法な耕作を行ったというのです。山崎氏によると、学会本部で北条副会長らと盗聴したテープを聴いていると池田会長が入ってきて、『どうだ、うまくいっているか』と聞いてきたそうです」(関係者)
この山崎証言をきっかけに共産党サイドは北条以下の関係者に損害賠償を求める民事訴訟を起こす(刑事事件は無効)。一審、二審とも負けた学会側は最高裁に上告したもののこれを取り下げ、賠償金を支払っている。
この裁判では神崎武法・公明党代表(当時は検事)の関与も明らかになっている。法廷の山崎証言では「盗聴がバレそうになった時、神崎は困った顔をして『下手に動くより知らんぷりしているほうがいい』という意見にうなずいていた」という。現職検事が違法行為を隠蔽したのだからヒドい話だ。

「恐喝事件」の真相

あれは恐喝事件ではなかった。資金繰りの苦しいある創価学会系列会社に資金提供を依頼したものである。
創価学会が今にも破綻寸前の会社を山崎正友氏に委託したのである。学会系の冷凍食品卸売会社「シーホース」である。
しかし、その会社は当時、45億円の負債を抱えており、会社を潰さずに経営状態を良好にするためには何億もの資金が必ず必要だった。それほど放漫経営だった。
そのため山崎正友氏は創価学会に資金援助を依頼した。それが三億円である。山崎正友氏はその会社を建て直すには三億円では足りないと更に五億円を要求した。
すでにその頃、山崎正友氏は池田大作(創価学会)に見切りを付け、創価学会のあらゆる仕事から手を引こうと決めていた。しかし、北条会長らが破綻寸前のその会社の建て直しを強引に押しつけてきたのである。
これはまた創価学会の恥部を知り尽くしている山崎正友氏が創価学会から離れていかないために北条会長らが考えた苦肉の策でもあった。
その会社の建て直しの途中で山崎正友氏、原島嵩氏の造反が露見した。
創価学会の恥部を知り尽くしている山崎正友氏を野放しにすることは極めて危険だった。北条会長は資金援助を恐喝事件にすり替えることを考えた。それは不可能と創価学会の弁護士たちは北条会長に言った。
これを恐喝事件に仕立てるために、公明党が動いた。これを恐喝事件として成立させるのはかなりの困難があったが公明党は優秀な弁護団により恐喝事件として成立させた。
もうここまで来ればお分かりだろうが、山崎正友氏は創価学会に嵌められたのである。
1981年(昭和56年)に創価学会から恐喝罪で告訴され、恐喝罪で逮捕された。
山崎氏は一貫して無実を主張したものの、学会側で用意した多数の証言の前に、山崎正友氏は二年二ヶ月の実刑となった。

その後

1996年(平成8年)2月に再婚してからも、結婚生活12年間、休むことなく創価学会関係者からの尾行が続いていたという。
山崎氏は趣味で野菜作りや園芸を行っていたが、山崎氏の妻の友人がある日こんなことを打ち明けた。
「畑の中に、目立たないように大きな穴が掘ってあって、落ちて転んでしまったわ。それに穴の中には針金のような物が剌してあって、危うくケガするところだった」と。
また別の日には、豆の葉やトマト畑一面にセメントが撒かれていたり、ペットフードが撒かれていることもありました。バケツに「死ね」と書いてあることもあり、嫌がらせは日に日にエスカレートした。
山崎正友氏はこの恐喝事件の真相を本にする途上で腎不全のため亡くなった。72歳であった。天命を全うしたと言っても過言ではない。
山崎正友氏は元々腎臓が悪く、学生時代はそのために何年も休学した。おそらく結核性の腎臓炎であったと思われる。
12月29日に山崎氏が逝去した際、狂信者集団の面々は山崎氏の遺体を乗せた救急車や葬儀社の車を深夜まで10台もの車で追跡したり、果ては「地獄行き」などと書き殴った怪文書を出し、1月5・6日の葬儀当日には、嫌がらせの電話や電報を会場に入れ続けた。
これは藤原弘達氏のケースと酷似している。

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