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小股の切れ上がった女

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小股の切れ上がった女 03/05/27・29

  「小股の切れ上がった女」という表現がある。

  これがまた如何ともし難い迷路となっている。この言葉の意味としては「勝気でさっぱりしたいい女」といったところであって、その形容は誰もが受け入れているわけだが、語源がはっきりしないのだ。諸説どころか一人一説とさえ言える状況で、しかもこの言葉が盛んに言い交わされていたであろう時代と比べて今は着物を殆ど着ないから、どういういきさつで誕生した言葉なのかがわからない。だからこそ様々な説が出て、完全に否定する理由もなく「こういう考え方もあるのでは」とますます混乱が深まる。ただ、これについて何かを言う者は半分以上諦めているわけであって、まあ大抵の場合、座興として楽しんでいる。そして手前もまた、座興として何か解釈をひねり出そうと思う。そして一応出来た気がする。

  これは何故「切れ上がった」と過去形しかないのだろうか。「切れ上がっている」「切れ上がりつつ」「切れ上がりそう」などの表現は耳に違和感を残す。切れ上がった、と過去形である以上、そしてまたこの表現が男の視点からであることにほぼ間違いのない以上、どう転んでも着物を着た女性のある状態を見て生み出された表現であろう。そしてそれは素直であるか茶々であるかはわからないが、確かに賛辞であったろう。現在でも意味の良くわからないまま、「小股の切れ上がった女」と評する場合もあるが、出来ることなら一応の解釈をもってから使いたい。

  今まで出た説の中で最も説得力のあるのは杉浦日向子女史の「着物を伊達に着こなして闊歩するとスリットのように正面から裾が切れ上がり内太腿がちらちら見えてそれが小股の切れ上がった、ではないか」とするものである。少なくとも手前はこれに一票投じたい。しかしまた、別の説をぶっ立てたいという気持ちもある。やってみよう。

  まず、着物を着ている女性を見た時に、「着物を着ない今の時代にはわからんよな」と思ったのだ。そして、この人は果たして小股が切れ上がったと表現するに相応しいかどうかとしばらく観察していた。確かに凛とした立ち方で、だらしなく浴衣を着崩している若者には感じられない色気があるにはあったが、小股が切れ上がっていると断ずる自信はなかった。さっぱりしているかどうかなど立っているだけではわからない。

  別の機会に見た着物の女性は喪服で電車に乗っていた。親しくても親しくなくても関係者の法事であろうから派手な言動もなく、ひっそりしていてやはり何もわからなかった。少し揺れた際に反射的に出した左足の足袋がちらりと見えて「うむ」と思っただけである。しかし喪服の女性は年齢の見当がまるでつかない。

  着物を普段着ないからたまの機会は自然にしとやかな気分になるのだろうか。普段着慣れている女性ならばある程度くだけた言動になるのではないだろうか。そこでやっと小股の切れ上がった女とはこういう人だと判断することが出来るのではないだろうか。そういう女性を数限りなく見るなど正月か卒業式の季節以外ありえないことだが、それでも折に触れ探しては見つけると観察してしまう。

  少し大きい街の繁華街でバーか何かのママらしき着物の女性が客の見送りらしき雰囲気で路上にいた。酔ってはいないだろうが結構賑やかな女性だ。立ち止まって観察などしていたら客引きに捕獲されてしまう。こういう場所で客引きに声を掛けさせない為には「悪いけど俺もそっちサイドの人間やねん。相手間違えとるで」という雰囲気を漂わせつつ辺りを一切見回さずに目的地があるかに見える断固とした足取りで歩めばよい。そうしてその女性の横を通り過ぎたわけだが、高島礼子に似たいい女、性格は太地喜和子か未知やすえ、これは「小股が切れ上がったと言いたい」と思いつつ彼女達が爆笑したところを一度だけ振り返って見てタクシーのヘッドライトに逆光で浮かぶ艶やかな輪郭に見とれた。影だから色はわからない筈だが、帯を通して光が差していて深く下ろされた襟とあげた髪が黒より濃い鮮やかな紫色に見えたのだ。当然次の瞬間歩道に置かれているスナックなんとかの看板に脛が痺れるわけだが、やや斜行しながら体勢を立て直して、「あのひとを小股の切れ上がった女としよう」と考えながら裏通りに折れて煙草の自動販売機の前で一息ついた。

  その後は幾度着物姿の女性を見ても何とも思わなくなったのはやはり無意識にあの女性と比べていたからだろう。それであるとき、正面にスリットの入ったタイトスカートを履いている女性の内太腿を限界を超えた横目で見て「あれが杉浦日向子説」と呟いたあと、太腿の上の方に寄った横の皺に目が吸い寄せられた。ロイコならかっと目を見開いて凝視するかもしれないが、こちらは日本語について深く考えているところだ。不自然にならない程度に体の向きを変え、少し楽になった横目であのまま全部ずり上がってしまわないものだろうかとも考え、やがて歩き出したそのスリット、ではなくその女性を、ではなく正確にはスカートの皺を眺めていると、タイトであるから太腿にぴっちり張り付いているので、下着のラインが出て当然なのに出ていないのは極端にえぐれた角度のものを着用に及んでいるか何も履いていないのだと思いつつ、何かが頭の中が反応していた。何だ。何かが引っかかったぞ。焦るな。逃がすな。既にその女性は見えなくなっていたが、その場で頭に反応した何かを慎重に探していた。

  わかった。張りだ。張っていたのだ。局部が盛り上がっていないのでベルトの下と両太腿の付根に囲まれた逆三角の一帯が張っていたのだ。そしてそこは歩いても変化がなかった。おお、なんということだ。皺ごときに見とれて見逃すところであった。そうだ。小股の切れ上がった女の語源見つけた気がする。

  こうだ。着物もある種のタイトスカートであるともいえる。そしてその帯の下と両太腿に囲まれた三角地帯は動きがない筈だ。そしてスタイルが良く、大股で闊歩する女性は、長い足の付根、太腿の付根がかなり上の方になるだろう。着物の思想として出来るだけ寸胴に見せるということがあるが、「小股の切れ上がった女」という表現が生まれる以上、何か女性の側に着物の着用に対する意識の変革があった筈だ。そしてそれは確かに大股で歩いて前から割れた裾の奥に内太腿が見えたからかもしれないが、それより二等辺三角形の等辺二つが、いわゆるビキニラインが、大股で歩くと谷折にへこむだろう。右足を出すと右太腿が押し出され、右のビキニラインが負に浮かぶ。足が長ければ長いほどこれが高くなり、歩を進めるに従って右の線左の線と浮かぶ、これが「切れ上がった小股」ではないだろうか。

  足が短く、しとやかに歩く女性はそれほどここが目立たないだろうし、何より、ちゃきちゃきした女が大股で歩くときのみ太腿付根線が浮かぶ。これは杉浦日向子説にもそのまま当て嵌まってしまうのがつらいところだが、まあ、座興だ。多少本気でもあるがどうせ結論など永遠に出ないのだ。
 
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