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小話「路地裏の塵芥」

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男が気付いたとき、目の前には既に暗褐色の古びた壁が立ちふさがっていた。
もつれる足を無理に止めて振り返ると、既にあの騎士は追いついていた。 二足も踏み込めば、あの腰の長剣が自分に届く──男はそのことをすぐに理解した。
聖都の夜を照らすガス灯の明かりも、この細い路地には届かない。暗闇の中で、月明かりだけが騎士の簡易鎧の輪郭を映し出している。兜は無く、白金の長髪を後ろで束ねた若い男の顔が見えていた。対する男自身は上着とも下着ともつかぬ襤褸に、擦り切れた麻のローブのみを身に着けている。
しかし簡易という名を冠しても、相手のそれは鎧だ。それを身に着けてなお男をこの袋小路に追い詰める脚力と体力。揺るがし難い事実の積み重ねが、男に戦慄を覚えさせた。
「やっと追いついたな」
騎士の声だった。息は荒かった。彼にとっても楽な追跡行ではなかったようだ。だからといって彼にもう走る気力や剣を振るう冴えがなくなったともいえないが。
男は意を決した。
「騎士様──」
声が掠れた。その掠れに、自分自身が驚く。が、頭の調子は悪くないようだ。まだなんとかなる。
「なにゆえ、わたくしごときを追われるのでございます」
「なにゆえ、か」騎士が言った。「答えはお前がもう既に持っておろう」
まだ息は荒い。上流階級の香水にまみれた部屋に出入りするような身分の男なら、おそらくこの路地の饐えた臭いを吸い込むのはさぞかし難儀なことだろう。
男は逆に、息を整え終えていた。
「いいえ、騎士様」
そしてゆっくりと続けた。
「わたくしはこの界隈を住処にする浮浪者でございます。たしかに神のご威光溢れるこの都においてわたくしのような輩はお目汚しでございましょう。
しかしわたくしは主の教えをよく存じております。教会にも、入るはおこがましいとよく存じながら、せめてとその扉の前での礼拝を毎日の日課としております。高貴な方々がいらっしゃるとあればその御目を汚してはならぬと身を隠し、そのときは一人この界隈の静かな場所で祈るのでございます。そうやって、一日たりとも主への祈りを欠かしたことはないのでございます。
また同じ身の上の子らに、憐憫ではなしにそれらの教えを説くことを長いこと試みております。もっとも、安っぽい同族感情の元で主の御言葉を語る資格などわたくしごとき浮浪者にありましょうや。すべては無償の愛を解かれた主の御心が先にあり、わたくしの行いはその末端にすぎない──幸い、その何人かは近くの司祭様に認められ、神学校へと進みましたが。
しかし、それ以外のいったい何をしたというのでしょう。いいえ、何もしてはおりません。少なくともこの信仰に誓って、わたくしめは何一つ咎を受けるいわれはないと思っております」
男の言葉は淀みなく、その口元は、無精髭に覆われてこそいたが、かつて同じようなせりふを何度も述べた者の慣れた動きだった。
只の浮浪者ではない。
騎士は直感していた。いや、このことを期していた。
男の饒舌に対し、彼は単刀直入に言った。
「ならば、なぜ逃げた」
男は微笑んだように見えた。


「あなた様がわたくしと目をお合わせになったとき、あなた様のお連れの方々が一斉に腰のものに手をかけたのでございます。
あなた様が真実わたくしの信仰を認めてくださる方であったとしても、あのような状況で、我が身の卑しさや負い目を思い出し思わず背を向けたとて──それまでも咎とされるのはあまりに御無体と存じます。
それともあなた様は、」男は荒れた唇を舌で湿らせた。「お連れの方々と共に、この取るに足らぬ乞食をお試しあそばしたのですか。主の御言葉に曰く、『汝、人を試すなかれ』と──」
騎士は頷いた。
「なるほど、我が部下が無用の不安をお前に与えたことは謝ろう。
しかしやはり、お前は私に追われてしかるべき理由があるぞ──その汚い姿のほかにな」
「なんと。それではもうわたくしに申し上げることはございませぬ」
「なぜだ」
「言葉どおりの意味でございます。申すべきことはすべて申しましたゆえ」
騎士の顔がはじめてゆがんだ。男からは笑っているようにも見え、また怒っているようにも見えた。
「ほう。では、お前は死の際までもその嘘を持っていくというのだな」
“死の際まで”。
男はとっさに否定の言葉を発しようとして──なぜか、でなかった。
「なにを躊躇うのか、乞食よ」なにかを見切ったように騎士が続けた。「そうだ。お前はまだ嘘を言ってはいない。これから言わねばならなくなるのだ。だから喋るのをやめたのだ‥‥違うか?」
「わたくしは──」
「──お前は」
騎士は自分で尋ねておきながら、男の言葉をを遮った。
「お前は自分の教えた子らが神学校へ入ったといったな。果たして、神の教えだけを説いたのか?それも‥‥違うな?」
男はまだ否定の言葉を捜していた。だが見つからなかった。ありえないことだと思っていたからだ。あの子らが、自分が教えた“真の知恵”の存在を他人に漏らすなど──
騎士は男の表情の硬化を確かめてから、ゆっくりと告げる。
「法王庁はいま、お前の──貴殿の一人の教え子のお陰で、とんでもないことになっているのだ」


一歩。男は思わず身を乗り出していた。
騎士の剣の間合いに入っていた。だが男は気付かない。
「それが誰か、知っているな?」
知ってなどいない。だが、表情はゆがんでいた。そこにははっきりと、ある推測が彼の中にあることを告げていた。
言うな──と自らを戒める前に、その乾いてひび割れた唇ははっきりとこう告げていた。
「──ナジェル?」
騎士は頷く代わりに男の目を見た。
「そうなのだ、罪人(ガリアン)よ。かつて錬金術協会の第二位階まで上り詰めた男よ」
男は体を振るわせた。何かが男に戻りかけていた。
騎士は続けた。
「貴殿が手塩にかけて育てたナジェルは、二十歳にもならぬ身で既に第二位階術師に匹敵する力を身に着けたのだ。貴殿は素晴らしい教師であり、彼は素晴らしい生徒だったようだ。
だが彼もまた、その力で道を外してしまったのだよ──若き日の、貴殿のように」
「う、嘘だ」
男の声が震えた。もはや先ほどの饒舌さはみられない。
「ナジェルはそのような子ではない。あの子は確かに飲み込みは速かった。だが理論からはみ出せる度胸はなかった。ただ私の教えを、忠実に──」
「先日、錬金術協会の宝物庫が何者かに荒らされた。幾つかの祝福武器が失われていったが、その中には第11教区で発見された“黒い石版”があったそうだ。あれが何か、貴殿ならおわかりだろう」
「只の古代伝承を記した石版だ。歴史的な価値以外はない!」
男は即答した。
「まだ仰るか」
剣だ──と気付いたときには、それは男の鼻先につきつけられていた。
彼には、相手が抜いた瞬間すら見えなかった。
「あれは貴殿が一時は生涯をかけるほどに研究した悪魔召還と契約に関する文章だ。そしてそれ自体にも媒介としての力がある──そう仰ったのは法王庁時代の貴殿自身だ」
「だが、」乞食は最後の力を振り絞るかのように、食らいついた。「だがわたしには解けなかった。いや当時の誰もが解けなかったはずだ。たとえ第一位階のグーベル師でもだ。だのに法王庁は私を役立たずと決め付け、挙句に悪魔にたぶらかされ技術を神の元に還すことを怠ったと、い、異端審問を‥‥あの、あの黒服が‥‥」
異端審問官。異端を見つけ出し裁く法王庁の犬たち。男はかつて己の身にふりかかった災厄を思い出したのか、体を震わせた。
だだ騎士は、そんなことは自分には関係ない、という表情をみせただけだった。
「ともかく、ナジェルは貴殿ではない。そして彼ならば解く──あなたの師、イライアス殿が申されていたことだ。可能性は高い」
あの老人が。当時の彼がこの世で唯一尊敬の念を抱いていた、あの偉大なる錬金術師が──
男の瞳に宿っていた知性と理性は、今や感情の波にさらわれ薄れて消えかかっていた。騎士はそれを見ながら、この命を受けてからずっと心に秘めていた台詞を伝える決心をした。
「錬金術師フレイノルド殿。私はあなたが為すべきことを伝えに来た。だがここまで言えば、あなたのことだ、既に察しがついているものと思う。
“我々”は明朝、ナジェルと石版を追う。旅の装備や旅費はすべてこちらで用意させていただく。必要なものあれば、この場にて申し受ける」
「無茶を言わないでくれ。そんな性急な話があるか。たとえ乞食だろうと、罪人だろうと、別れを言うべき人々があり、暇(いとま)を惜しむ世界がある。せめて、明後日に」

彼の背後で動くものがあった。

乞食の男は一瞬目を凝らし、それから、「お前は」と口を動かした。声は出てこなかった。
「罪人よ」
黒衣の男はゆっくりと騎士の隣に立った。再会に対してはまるで興味がない様子で、無表情のまま男が予想した台詞をほぼそのまま口にした。

「異端審問官イシカ・アーグレイはフレイノルド=オルフス・オルウェンに対し、我々の異端審問に迅速かつ全面的な協力を要請する。許諾・遂行すれば先のヨトゥン監獄脱走の罪を赦し、さらに法王庁錬金術協会員の身分を復活させる。断れば、この場で貴殿に対する異端審問を実行する」

そのとき、路地に一陣の風が吹いた。袋小路の塵芥が舞った。
黒衣の男のコートが翻る。右の腰に何かが見えた──銃だ。法王庁の祝福武器の中で最も速く、最も強い器具の一つ。使い込まれた革の鞘に納まり、それは出番を待っているかのようにグリップを外に向けて突き出していた。
男の右肩と左足の古傷がうずいた。あの銃が貫いた跡だ。
断るという選択肢は端から無かったのだ──そう気付いたとき、男の肩を、冷たい板のようなものが叩いた。
見ると、騎士が剣の背で叩いているのだった。
「難しく考えないことだ。荒事は俺たちが引き受ける。貴殿は貴殿のもつ力のみに注力されればよろしい。
それと、私はドークス・エジムント、第3教区ディアーク卿に仕える赤峰騎士団の末席に連なる者だ。今回は縁あってこの任務に同行することになった。
──よろしく、錬金術師殿」
差し出された右手を、男は力なく握り返すしかなかった。

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